「誰かのため」は、誰のため?
↑ゆめいと初!アイキャッチをいれてみました。(拭えない不器用感)
突然ですが。わたし、サプライズが大好きなんですよね。
相手が喜びそうなことを考えて準備して、でも、ギリギリまで絶対教えない。笑
喜んでくれても、「当たり前のことをしたまでだよー」とスマートにさらっと“こなす”のが好きなタイプ。
誕生日とか記念日とか特別な日だけじゃなくて、普段居酒屋で飲んでるときも、結構そういうことを考えてます。
「おっ、そろそろ醤油の出番?」「新しいおしぼり頼んどくか」みたいな。
誰かのために何かを考えているときって、とっても楽しいんです。
それが特に好きな人たちだと、わくわくも奉仕欲も倍増します。単純。笑
「ホスピタリティあるよね」と言われることもあります。
嬉しい。嬉しいけど、なーんか自分にはしっくりこないと思っていました。
「誰かのため」は、誰のため?
重ねますが、誰かのために何かを考えているときって、とっても楽しいんです。
他の誰でもない、このわたしが。
誰かのために何かをして喜んでもらえると、とっても嬉しいんです。
他の誰でもない、このわたしが。
誰かのために何かをして、思っていたより喜んでもらえなかったら、がっかりします。
失望するのは、その「誰か」ではなく、わたしです。
わたしに対する 「ホスピタリティがある」という評価にしっくりこない原因って、多分ここにあったんですよね。
「わたしがもし〇〇さんだったら〜」という考えに潜む罠
新卒で入社した前職では、営業をしていました。
テレアポして、ニーズを聞いて、訪問して商談して、提案する。
その営業活動で求められていたのも、「お客様のために」という顧客思考でした。
お客様の悩みをたくさん聞いて、課題解決のための提案を考えます。
いくら懸命に考えて提案しても、受注できなかったお客様がいました。わたしの努力を知ってか知らずか、最後まで心を開いてくれなかったお客様もいました。
悩んでいた時、上司にヒントをもらって、とある事実に気付きました。
「わたしがお客様だったら」って、自分が主語から離れられないうちは、結局自分の視点しか見えてないんです。
自分が相手だったら100点をつけるような提案でも、相手が0点をつけたらそれが本当の評価。落第なんです。よく考えれば当たり前なんですが、わたしはそこを混同していました。
どんなに近い存在でも、相手は“他人”であることを認める
誰かのために何かをしたとき、その行動の価値が自分と相手で違うことは多々あります。自分と相手は価値観も考え方も違う“赤の他人”だからです。
「営業担当とお客様」のように、相手と一定の距離を置いている関係であれば、混同も少ないかもしれません。ただ特に注意したいのは、相手と親しい仲である場合です。
親しい仲になると、どうしても「わたしと相手は同じ感覚をもっている」と錯覚しがちです。つまり、「コレをしてもらうとわたしは嬉しいから(相手も喜ぶだろう)」という理由で勝手に行動し、勝手に何かを期待することが増えます。
そうして、思ったより喜んでくれなかったり、期待した見返りがなかったりすると「こんなにやってあげたのに」と心がざわざわします。本来は“相手”のためにとった行動なのに、“自分”が満たされないことに不満をもってしまう。
本末転倒ですよね。それがきっかけで喧嘩になんてなろうものなら、悲劇です。
ドライな言い方に聞こえますが、自分の中でしっかり「相手は他人であること」を認めなければいけません。尽くしたがりには辛い事実です(T_T)
「この人はコレが“幸せ”ではないんだ」と納得できる強さ
わたし自身、どんなに大切な相手でも“他人”であるということに気付き(認め)始めたのは最近です。だから今は、できるだけ独りよがりにならないように意識しています。
(たまにワガママになっちゃうのは仕方ない!と自分を甘やかしながら笑)
「誰かのために」と思って行動すること自体は素敵なことだと思います。
そう思って行動できるのは、わたしの良さだとも思ってあげるようにしています。
ただ、もし相手から期待以上の反応が返ってこなかったら。
そのときは「この人はこれが嬉しいわけじゃないのか。なるほど。」と納得できる強さも必要かな、と。
「コレは駄目か!じゃあコレはどうだ!」と悔しさをバネに集中砲火して、より相手を知るきっかけにしてみるのもいいかもしれませんね(^o^)
世界のどこか、あなたの心のどこかにいるかもしれない「承認欲求強めの尽くしたがり屋さん」と一緒にがんばれたら嬉しいです。笑
それではでは!